赤穂浪士に関するニュース
 読売新聞 |
<河村常雄の家元探訪>林 与一(1)読売新聞日本舞踊林流の二代目家元は、昭和39年のNHK大河ドラマ「赤穂浪士」の堀田隼人で一躍お茶の間の寵児(ちょうじ)になった俳優。林与一。上方歌舞伎の名門に生まれ、曽祖父は一代で大名跡を築き上げた初代中村鴈治郎、祖父はその長男で歌舞伎役者の二代目林又一郎である。 ... |
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サザンの桑田佳祐さん食道がん公表、休養へ読売新聞伝統芸 <河村常雄の家元探訪>林 与一(1) (7月28日) 日本舞踊林流の二代目家元は、昭和39年のNHK大河ドラマ「赤穂浪士」の堀田隼人で一躍お茶の間の寵児(ちょうじ)になった俳優。林与一。上方歌舞伎の名門に生まれ、曽祖父は一代で大名跡を築き上げた初代中村 ...and more » |
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忠臣蔵:松平健さん、御園座公演で内蔵助に初挑戦 /愛知毎日新聞忠臣蔵は、浅野内匠頭の刃傷ざたから切腹、内蔵助ら赤穂浪士の討ち入りが描かれる人気の演目だが、今回の作品は、堀越真さんの脚本で新解釈を織り交ぜるのが特徴。 大石内蔵助の妻りくは、御園座初舞台の紺野美沙子さんが務める。「日本を代表する芝居に出演できて ... |
 中日新聞 |
からくり人形5体勢ぞろい 伝統の「戸田祭」紹介中日新聞大演会には、からくり人形5体が集結。それぞれの動きから「文字書き」「唐子遊び」などと命名された人形は、笛や太鼓の音色とともに内部から巧みに操られ、集まった200人余の拍手を浴びた。 戸田まつり保存会の鬼頭久雄会長(64)は「江戸時代の赤穂浪士の討ち入り ... |
赤穂浪士関連エントリー
「赤穂浪士の密談」ミニチュアモデル
「赤穂浪士の密談」ミニチュアモデル

赤穂浪士の足跡をたどる&牡蠣を食す
もう先月の話になるのですが 赤穂へ行ってきました(^o^) 赤穂と言えばもちろん 赤穂浪士 でしょう この日全国から赤穂浪士ファンの方々が沢山来られていました。 以前はこういった石像は無かったように思います(・・?多分 十数年前に来た記憶がありますが ...

赤穂浪士
赤穂浪士 昼間は こんな 感じでした ^^ 義士祭は新暦12月14日に行われる

赤穂浪士 オープニング
赤穂浪士 OP 今宵は討ち入りの日。 ということで、NHK大河ドラマ 「 赤穂浪士 」 オープニングを。 これまで数限りなく作られてきた、四十七士の物語。 しかし、テーマ曲は 芥川也寸志さんの作曲した「 これ 」で決まり! 日本のボレロじゃ。 ...

更級日記と赤穂浪士の道
... ところがこの道、江戸時代には赤穂浪士が走るのである。 大石内蔵助自刃の地、という標もある。 思えば、何と長い歴史の因果を見てきた道なのだろうか。 心して歩かねば。 そういう場所は空っぽの心で歩いていると、自分が乗っ取られそうで怖い。 ...

赤穂浪士旅行記
「赤穂かき三昧」紀行(by ひま人さん)
グルメ旅行ということで、12月のふぐ、1月のクエと続き2月は牡蛎だと、最近、播州の牡蛎が売り出し中でもあり、赤穂へと向かった。赤穂御崎の「銀波荘」で「牡蛎づくし」全12品を食し堪能した。
赤穂は日本三大敵討の「赤穂浪士」の本拠地で有名であり、見所もそれに関連した施設が多い。伊和都比売神社、赤穂城跡、歴史博物館、赤穂大石神社、花岳寺、息継ぎ井戸等を見学した。時間があれば、赤穂市立海洋科学館・塩の国(製塩体験が出来る)、市立田淵記念館、海浜公園等を訪れるのも良い。そして播州赤穂駅から相生で山陽新幹線で帰路に着いた。
写真は赤穂城本丸門、平成4年~8年にかけ復元したもの。櫓門と高麗門の2門で構成されている。
【旅行時期】2010/02/13~2010/02/13
【エリア】
赤穂
【テーマ】
グルメ
【投稿者】
ひま人
蘇州・太湖西山に遊ぶ(by 彷徨人さん)
落つるたび 心憂がるや 寒椿
例年のことではあるが、12月に入ると、何故か気ぜわしい気持ちになる。赤穂浪士の討ち入りでもあるまいが、特にこの月に目新しいことをしなければならないわけでもあるまいのに、世間の忙しさに感化されるのかもしれない。気持ちの上で,忙しくもあるが、落ち着き無きある日、中国で事業を展開している友人から、仲間を誘い、忘年会を中国でしようとの誘いがあった。この年の瀬にわざわざ『中国で?』、という世間体もあるし、とは言え、気忙しさに流されることもあるまいに等と、迷いが一瞬はあった。行く先は彼の工場のひとつが在る、上海と蘇州の中間に位置し、上海蟹の養殖湖として有名な陽澄湖がある昆山である。彼曰く、とびっきり旨い上海蟹を取り揃え、更に料理を上手く引き立てる、熟成した特級の老酒、その肴は、勿論魚米の里は蘇州で培われてきた上品で穏やかな味付けの江南料理も準備させよう。生きている喜びをしっかりと味わえる旅への誘いである。これを断る理由などあろうかとばかり、早速その誘いに僕は乗ったのだ。その裏では、来春の写真展の作品をそろそろ準備しなければと思い始めていた僕は、この際に、冬の江南の旅情を写真に収めたいとの魂胆もあったのだ。
その夜の、昆山の、舟形の料理屋での忘年会は、彼の会社の関係者も参加して、賑やかに始まった。蒸された上海蟹が大皿に盛られて出されるや、歓声とともに早速蟹の解体に入ったものの、やがてわが同胞は沈黙に陥って行くのである。見回すと、いずれもなにやら梃子摺っておる様で、やがて持て余し気味となり、蟹肢をせせる音も些か力が入っていないように聞こえるのである。蟹に四苦八苦しながら、次第に、老酒へとウエイトが移って行くようで、気がつけば老酒の壜が何本もテーブルの上に横になっているではないか。結局は、蟹料理には珍しく、よく喋り、よく飲んだ忘年会となったのだ。
翌朝は、少しのんびりと旅立つことになった。僕はこのところ一人旅が多いので、今日の団体行動には少し興味があったのだ。僕たちの蘇州観光は、まずは寒山寺から始まった。僕はここに来ると、いつも弘法堂に向かい、空海さんの旅装束の像を眺めながら、空海さんの唐での足跡を、これまでに追いかけた日々を思い出すのだ。団体旅行の華?とでも言ようか、最後は、寺内の売店での、拓本や掛け軸,書などの買い物に時間を割くこととなった。寒山寺の正面で全員での記念写真を撮り、次の場所へと向かう。蘇州観光でのお土産は、かつては、拓本や掛け軸、そしてシルクの布地や刺繍であったが、今はシルクのフトンに人気があるようで、寒山寺からあまり遠くないところにあるフトン工場に直行した。この店には、次から次へと観光バスが横付けられ、観光客が一斉に店の中に吸い込まれて行った。繭から糸を引き、それをフトンへと加工されていく工程を足早に見学し、やがてメインである売り場へと誘なわれるのである。そして両手にお土産を抱え込んだ観光客がバスに乗せられ、次の目的地に向かうのである。
昼食のため、金鶏湖の李公堤にある得月楼に向かう。冬のしかも昼間の金鶏湖は、寒くしかも閑散としていた。しかし、それが幸いして、ゆっくり蘇州料理を堪能することができた。午後は再び城内に戻り、拙政園の庭を最短コースでまわり、次に向かうことになっていた。来年3月の写真展のため、冬の太湖の写真を撮る計画を持っていた僕は、庭園見学後、ここで仲間と別れた。
実は古い友人の黄さんに、無錫に行き冬の太湖の写真を撮りたいと相談したら、蘇州人の彼は、『蘇州にも太湖がありますよ。空海さんも、芥川龍之介も蘇州の太湖を見ているのですよ』と、僕の興味をそそる口説き方で誘うのである。結局彼に、蘇州の太湖に浮かぶ西山島に案内してもらうことになったのだ。翌日は青天であったが、気温は零度を割っていた。準備していた防寒具をしっかり着こみ、迎えを待っていた。黄さん夫婦と日系企業の役員をしている妹さんが同行することとなった。黄さんの運転で観前街にあるホテルから、蘇州城内を西に取り,新区を通り、更に西に向かった。やがて霊巌山が見えてきた。2年前の春節に、かつて空海さんも芥川龍之介も登ったことのある霊巌山から、遠くに太湖を見たことがある。古鎮木○(MUDU)を過ぎてから南に道をとり、再び西に向かって走っていくと、やがて遠くに鈍色の太湖が見えてきた。
太湖は、長江デルタに位置し、大運河ともつながり、多くの中小の河川、運河や水路などが流れ込み、またここから蘇州を流れる蘇州河や上海を流れる黄浦江などの河川が発しているようだ。これら太湖周辺の水系は、最後はすべて長江に流入しているのだ。太湖周囲の都市のうち、北岸の無錫には、1993年の5月と2004年03月に行ったことがあるが、太湖を僅かに眺めたに過ぎない。西岸の宜興(江蘇省)には、2004年の4月、南岸の湖州(浙江省)には、2008年の2月に出かけたが、どちらもゆっくりと太湖湖畔をドライブした。もちろん東岸に位置するここ蘇州(江蘇省)には、何回も訪れているが、真近かに太湖を見ることはこれまでにはなかった。
西山について、あらためて調べてみた。蘇州西山風景区は蘇州城内の西方にあり、1994年に延長5キロ余の太湖大橋が完成し、蘇州市内から車で行くことができるようになった。小高い山がいくつかある太湖最大の島であり、洞庭山の別名がある。この島は南北11km、東西15km、面積は79.8平方kmという大きさであり、島内のあまり高くない山々の頂上に登ると、多くの島が浮かぶ湖の景観を眺められる。また呉越時代以来の旧跡があり、季節により楊梅、びわ、銀杏、みかんや金柑のような柑橘類などの果樹も豊富であり、梅の林が広がる島では、春節のころには観梅客で賑わい、高級の緑茶である碧螺春の産地でもある。また中原から逃れてきた人々の末裔が住む村落などもある。風景区には西湖夕照、石公秋月、鳳凰煙雨などの名のついた20か所の景点などもあるが、僅かな時間で、果たして何処まで見ることが出来るのだろうか。
西山島に入ると、まずは島の東南にある明月湾古村に向かった。その一番東南角にある石公山は、山の入り口にある老人の姿に似た巨大な太湖石から「石公」と名付けられ、天下に知られた名石がここから採掘されたところである。かつて呉王夫差の離宮があったところでもあると言われている。となると、越の国から送られてきた美女西施も、この地で生活していたのかと思うと、些か嬉しくなるのである。その麓に当たる船着場のあたりには、路上に干物や果物などを商う人々がたむろしており、車から降りるや、彼らに取り囲まれた。この村に入るには入村料がいるのだが、自分のところで食事をしてくれれば、入村料は只でよいという誘いに乗り、この村の宿屋の主に付いて村に入った。昼食までは少し時間があるので、その前に村の中を見学することした。まず入り口付近の広場には、樹齢千年という楠木が立っていた。この広場と住区との間には、堀が掘られており、かつては村を湖賊などから守る堀の役目をしたのであろうが、現在は舟泊りとなっている。橋を渡り村に入ると、丁度村の中では, 淡褐色の絨毛に包まれ、かたまり咲く芳香のある枇杷の白い花が咲いていた。その下に、狭い道路網が村の中を走っており、その道路には石畳が敷いてある。しかも石と石の間に細長い溝が切ってあり、雨水などを流す下水道が、道路の下に設けられているのだ。庭先に魚を干した家があった。中に入ると、大きな魚は開きにして縄にぶら下げており、小魚や蝦等は筵に広げて干してあった。少々おしゃべりではあるが、気さくな性格の黄さんの奥さんは、いつの間にかこの家の主人と何やら話しこみ、やがて主人は干してある大きな青っぽい開きの魚を、何枚かに切り分け、ビニール袋に入れ始めた。お昼近くに、この村に入るときに約束した船着場を見下ろす宿屋の2階にある食堂で昼食をとることになった。この村に入った時に、黄さんの妹さんが料理を既に注文していたのだ。テーブルに着くと、太湖「三白」といわれる銀魚、白エビ、白魚を使った料理、そして裏の畑で取れた野菜やキノコを使った地元料理が出されてきた。比較的淡白な味付けと魚好きの僕には、とても食べ易い料理であった。ただ淡水魚の小骨の多さに、歯を治療中の身には些か閉口したのだが。
青魚干す 太湖の岬 年暮れぬ
食後,島内をドライブした。そして再び太湖大橋を戻り、2004年ごろから開発されている湿原(土)公園に向かった。途中信号で車が止まったとき、車の脇の歩道で、果物や干し物などを並べている露天商がいた。黄さんの奥さんは、助手席の窓を開け、早速値交渉を始めた。1斤(500グラム)7元の高いほうの銀杏を5元に値切り、4斤買うこととした。露天商の中年の女性は、竿秤で量り、袋に詰めて奥さんに渡した。車のポケットから簡易秤を出した奥さんは、受け取った袋を量り直したら、2キロが1.6キロしかなく、20%も少ないのである。仏頂面した露天商は、しぶしぶ量り直した。店を持たない露天商は、値段交渉に簡単に応じるが、量り売りが中心の中国では、秤そのものに問題があるようだ。さすが賢婦人の誉れ高い黄さんの奥さんは、昼食をした宿屋の主人に、良い銀杏の見分け方と相場を聞くために、そこで既に1斤を購入していたのだ。
太湖大橋を渡り、右に回り湖畔に沿って走ると、やがてレストランが建ち並ぶリゾート地区に入る。その先の水辺に、巨大な水風車が見えてきた。2009年の夏に完成した湿地公園のシンボルとなっている水風車である。車から降り、湿地の中を走る桟道を歩き、水風車に向かった。午後になっても気温が上がらず、桟道の脇では,鈍色の蘆や、蘆穂綿が風に揺れ、一層寒さを誘うのである。水風車の周りの広場には、この寒さに背抜きのウエディグドレスを着た女性たちが、震えながら立っている。水風車をバックに、結婚記念アルバム用の写真を撮る順番を待っているのだ。順番が来ると、コートを脱ぎ、新郎と絡み合いながら、にっこり笑って写真を撮っていくのである。この日は、日が良かったのだろうか、周りは新婚さんだらけであった。80年后の離婚率は20%を超えているというニュースを最近見たのだが。
霜冴えて 枯蘆騒ぐ 水辺行く
帰りに、少し大回りして、宝帯橋を見に行ったのだが、手前の管理事務所の門が既に閉じられ、中に入ることが出来なかった。門の隙間から写真を撮ったのだが、うまく行かなかった。
その夜、一族で冬至の夜の祝いをするという黄さんの誘いに甘え、その席に参加させてもらった。ホテルの近くにある酒屋さんの前を通った時、とても甘い香が漂ってきたのだが、それが金木犀を入れた冬醸酒であった。食事の始まりに冬醸酒で冬至を参加者全員で祝った。
2009年の中国は、GNPが8%は超えたようである。ホテルへの帰り道、蘇州の中心繁華街である観前街は人で溢れていた。近道のためデパートの中を横切ったのだが、ここは戦場のような有様であった。不動産価格も、この1年で2桁の値上がりだとも言われている。事実、この日ドライブで通ったあちらこちらでマンションの建築現場に出くわした。企業誘致のため開発された工業園区も新区も、いまやマンションが優先的に建築されているようであるが、夜になっても明りの点らない部屋が増えているとも聞いた。中国のこの元気さは羨ましい限りだが、夜になっても明りの点かないマンションが増えているのは、些か不気味でもある。
翌日、空席の目立つ最終便で上海から帰国の途についた。
【旅行時期】2009/12/~2009/12/
【エリア】
蘇州
【テーマ】
【投稿者】
彷徨人
新発田城三階櫓(by ドクターキムルさん)
鉄筋コンクリートで再建される天守閣が多いなかで、木造で再建された天守閣もある。古くは1933年(昭和8年)再建の郡上八幡城に続いて、1935年(昭和10年)に伊賀上野城が再建され、平成になって小峰白河城天守閣が復元され、木造天守閣は掛川城、白石城、新発田城、大洲城と続いて再建されている。隅櫓や城門の復興も木造でなされるようになってきている。最近は本丸御殿の復興がブームのようで、彦根城、佐賀城、丹波笹山城、熊本城、名古屋城で、木造でなされている。名古屋城では木造での天守閣の再々建も話題に上っているようだ。いうまでもなく、日本の伝統建築は木造であり、近世の建築物を木造で再建復興すればその良さを実感することができよう。
新発田城天守閣(三階櫓)と辰巳櫓が総額約12億円をかけて平成16年に復元された。古文書と古写真、発掘調査に基づいて復元され、木材も通産省(当時)に持ち込んで強度試験をして建築許可を受けたというぐらい几帳面に復元された極め付きのものである。新発田城には表門、二の丸隅櫓が現存し、無料公開(公開期間は4月1日から11月30日まで)されているのは全国でここ新発田城だけである。ただし、再建天守閣(三階櫓)が通常公開されないのも全国でここだけである。陸上自衛隊の敷地内にあり、これまでに完成当初の初日と5周年の1日しか一般公開されていない。天守閣(三階櫓)が再建されても敷地とそこまでの誘導路が払い下げされないという何とちぐはぐなことこの上ないことか。したがって、お堀のこちら側からしか見たことがない。どのような木造構造物で建築基準法をクリアしているのか興味の湧くところでもある。
余談であるが、高田馬場の決闘で有名な中山安兵衛、後の赤穂浪士で有名な堀部安兵衛の出身地がこの新発田である。本丸表門の近くにある小さな広場に銅像が建つ。
泉岳寺(by ドクターキムルさん)
忠臣蔵で有名な泉岳寺は毎年12月になると話題になる。一度はお参りに行こうと思っていたのだが、とうとう30数年かかってしまった。10年近く前の夏休みにはそろそろ行くことにして都営地下鉄泉岳寺駅まで行って電車を降りたのだが、ホームの余りの暑さに気が滅入り、次に来た電車に乗って帰って来てしまった。今度は秋なので気温が35℃を越えることはない。
泉岳寺には大石内蔵助を始めとする赤穂浪士四十七士の墓や主君の浅野内匠頭の墓や浅野家の墓がある。播州赤穂城に行ったら、驚いたことに、城内には大石内蔵助を祀る立派な大石神社や大石内蔵助の屋敷の長屋門があり、浅野の殿様の面影を残すものは何もなかった。忠臣と愚君の扱いであり、浅野内匠頭は地元でも尊敬はされない殿様なのだろう。
泉岳寺の寺務所で赤穂の大石神社との関係を尋ねたら、何も接触はないとのことであった。不思議な気がした。墓の参道には数多くの石碑が建っているが、全てが明治2年以降のものだ。墓前の茶屋の人が言うには、明治2年に明治天皇が江戸城に入り、直後に数人の供しか従えずにお忍びで泉岳寺を訪れ、赤穂浪士四十七士を「忠臣」と称えたそうだ。江戸幕府の目を憚ることもないそれ以降に赤穂浪士四十七士を忠臣と称える石碑が林立したのだろう。四十七士のお墓一つ一つに線香を手向けお参りし、浅野内匠頭、あぐり姫、浅野大学の墓もお参りした。春のうららかな日に、参拝者もまばらな墓所で300年余り前に亡くなった方々の冥福をお祈りして少し心がすっきりした。
(表紙写真は泉岳寺本堂)
12月14日・赤穂義士の泉岳寺 法要参列篇 (by kioさん)
赤穂義士の討ち入りの12月14日が近くなってきたので
今年もこの時期、赤穂義士の法要に参加したレポートを巻頭に
持ってきました
いつも画像が一枚も無い私の旅行記ですが今回だけは何枚かの
写真と共に大石内蔵助以下 十数人が自決した旧細川邸の自決現場を
一番最後に載せました。ここは普段は門は閉ざされ公開されないのですが十二月十四日だけは門が開かれ、 霊感の殆ど無い私でさえも、
かなり霊気を感じてしまうような場所でした。
毎年、12月14日、この日の高輪・泉岳寺は幾多の供養に参る人波が途絶える事の無いほどに賑やかになる。この日は泉岳寺最大、且つ史上最強の人気を誇る檀家でもある赤穂義士の討ち入りの日として知られている。
云わずと知れた元禄15年(1702)12月14日未明の遺臣たちによる吉良邸討入りは300年を経た現在でも歌舞伎や映画、芝居でも広く知られ多くの人々の心に訴え、そのストーリー展開は日本人の感性や国民性にマッチして揺さぶるもの多々あるのだろう。
浅野氏が吉良氏を襲った江戸城・松の廊下刃傷の真相も諸説紛々、イジメに対する逆襲、赤穂の塩に関する賄賂の要求に対する拒絶、浅野氏の癲癇<てんかん>体質説、本当の真相は藪の中というミステリアスな部分もある。
私も齢を重ねるごとに所謂<忠臣蔵>に多大なる関心を持つようになってきた。たまたま仕事で深い付き合いのある人が、毎年、12月14日には泉岳寺で執り行われる赤穂義士法要に毎年参列していると伝え聞いて、私も是非にその法事に参列してみたいと同行する事に相成った。
歴史モノにまったく頓着の無き配偶者からは「赤の他人の法事に参列してど~すんのよ~」と無粋な事を云われようと、法事に参列する四十七士の子孫達の様を通じて、三百年前の江戸の人々の心を奮わした事件に思いを寄せるのもタイムスリップしたような感覚が味わえそうでロマンが有って良いではないかと感じた私は12月14日を愉しみに待った。
C義士会という組織がある。赤穂義士に関わるの研究団体である。
私は今回、このC義士会が仕切る泉岳寺での12月14日の集まりに参加した。 参加費用は¥3000なり(*^_^*)
この団体の長はN氏と云う、史実と物証だけに基づいた赤穂義士の研究と勉強を数十年も続けているその道ではかなり著名な方でもある。彼の書物を購入し、プロフィールを読めば、私と出身大学も出身学部も同じではないか!軽くシンパシーを感じる事も無くは無かった。
C義士会では<赤穂浪士>とは言わない。
あくまでも忠義を尽くした<赤穂義士>が本来の呼称だと考えているように感じた。
<C義士会>は赤穂義士研究の財団法人として泉岳寺にもきわめて深く食い込んでいるようで、泉岳寺の本堂で執り行われる法要にも参加費用を払った我々は参列出来るのだ。
本堂の外は群集が文字通り押し合いへし合い、線香の煙で霞みがかかるほどの状況の中で凛とした佇まいの中の本堂にいる自分は奇妙な優越感を感じたりする。
かって観た事のないような立派過ぎるほどの巨大な祭壇に向かって左側の席には赤穂義士に連なる子孫の方々が三十数名参列されている。右側の席には中央義士会関係の我々ギャラリーが50~60名は座っていた。やがておずおずと僧侶が巨大な本堂の四隅を固めるかのようにポジションを取りはじめた。いったい何人いるのだろう、、無粋で無遠慮な私は目で袈裟を着た僧侶の数を追いかけて数えてみた。その数は十数名! 更に祭壇の真正面に添えられた西陣織?のような美しい赤紫の生地で覆われた椅子に紫の袈裟を着たヒトキワ貫禄のある僧侶が腰掛ける。泉岳寺で一番の大僧侶なのだろう。大僧侶が腰かけたところで間もなく、本堂に朗々と響く読経が始まった。
僧侶十数名による経読みの迫力はさすがだった。ステレオのようにお経があちこちから響き渡る。泉岳寺が泉岳寺として全国的に認知されている、云わば泉岳寺を支えている赤穂義士の法要である。寺の力の入れ方もハンパではない。この場にいるだけで参加費用¥3000の価値はあるなあ と妙な所で納得してしまう訳の判らない私。実に良いモノを見せてもらったという感じです。30分以上!に渡るステレオ読経が終わり、法要は滞りなく終了した。皆が次の場所へ流れて行く中で、私はあらためて祭壇に近寄り、80cm!はあろうかと思われる巨大な位牌を眺めては深い思いに耽ってみたりする。
今度は泉岳寺内にある立派な畳み部屋の控え室に場所を移す。今度は講演会と懇親会、質疑応答である。この部屋に入場の際、銀座○○の松花堂弁当、大石家の家紋の入ったネクタイピン、ワンカップ酒、蜜柑の入った紙袋を渡される。三千円でこんなにサービスして貰っていいの??というのが実感でした。さすがに翌年参加した時は松花堂弁当が<赤穂の塩饅頭>に変わっていましたが(*^_^*)
正直な主催者曰く松花堂弁当だと赤字になってしまうそうな(゜゜)(。。)(゜゜)(。。)ウンウン 深~~く納得・・・しました。
今度はN氏の赤穂義士に関する新しい史実の開陳を含めた講演を聞く。勉強熱心?な振りをする私はメモをとったりする。そのメモ書きを何処かに失してしまい、講演の内容を詳しく書けない。記憶に残っているのはN氏曰く、今回新たに何処にも発表されていない新しい史実を皆様に初めて開陳しますと重々しく前説で述べて語った事。いったいどんな新事実が判明したのだろうと、ワクワク軽く期待したのだが、、、、
それは四十七士がいざ、吉良邸に向かう直前に大石内蔵助が同士に噛ませたというものに<なた豆>があったという話。何でも今でも高級な福神漬けに含まれている豆らしい。ある種の強精作用、興奮作用があるという。
ふ~~~っむ、、忠臣蔵研究家は実に様々な事でさえ調べに調べてその道の第一人者に成り得るのだなあと感じ入った。映画やTVドラマなどで大河ドラマのような忠臣蔵の製作が始まると時代考証などで必ずのようにN氏のもとへ番組スタッフが時折、訪ねてくるという。そんな時に史実にはない、大石内蔵助の息子、大石主税に許嫁<いいなづけ>が居たかのような荒唐無稽なストーリー展開や蓮っ葉なシナリオを持って来られると史実に徹底的にこだわるN氏は激怒して番組の監修を降りたくこともしばしばという。
義士達は吉良邸討ち入り後、吉良邸の向かいの寺、<回向院>での休息を求めたが、関わりを恐れた回向院の門塀は固く閉ざされままだったという。彼等は明け方、両国の吉良邸から高輪の泉岳寺までのおよそ三里の深く積もった雪道を20キロの武具を着けて3時間で歩いたという。これって魂消るほどの、とんでもない早足です。私は当時の積雪はどの位だったのでしょうか?と思わずN氏に尋ねたい衝動に駆られましたが、他の質問者との内容の落差が凄すぎるような気がして堪えました(汗)
二時間に及ぶ講演と質疑応答を終え、この年の12月14日は歴史の深淵に触れる事の出来た、私にとってそれはそれは~とても充実した一日と相成りえました。
赤穂浪士の画像